昭和48年02月28日 朝の御理解
御理解 第69節、
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
信心はみやすいと仰られながら、三年五年ではまだ迷いやすいとか、又喜んでわが心を祭れとかとかと言う様な、これは大変難しい事を説いてあります。私はこの信心はみやすいと言う事は、どう言う事かと言うと、普通で言う子供でも出来ると言った様な意味じゃないと思うですね。みやすい事は子供でも出来る事をと言うでしょうが。あゝいう意味ではないと思うです。私はこれは信心が好きになると言う事だと思うです。信心が好きになると、それは難しい事じゃない。
とても信心しなさる人ばかりは、毎日毎日朝四時も遠い人は三時過ぎから、毎日毎日参りよんなさるが、とてもとても私どんじゃ出来んと、信心の無い人は言います。けれども、段々信心の有難さが分かって来、いわゆる信心が好きになってくると、もうそれが生き甲斐であり、それが楽しみである。もう手足の続く限りはと。例えば吉井の熊谷さんなんかはそうでしょうが。もう七十何才ですか、七十五歳ぐらいになられますか。もう二十数年間、椛目の時代は久大線で草野から歩いて椛目までお参りでした。
合楽に移らせて頂いて、バスを利用しておられる。三里の道を言わばいくらバスであってもです。朝の御祈念に参ってくる。そして又夜の御祈念に参って来なさる。月次祭と言うたら又昼にお供えを持って見えますから三回は参られる。そして婦人部会にも出られりゃ、研修会にも出られる。昨日は敬親会でしたが、敬親会にもやっぱ来とんなさる。しかも それにはお金も随分要る事ですけれども。もうそれが生き甲斐て熊谷さん辺りの場合は。楽しみ信心が有難い成程おかげも受けられる。
けれども信心が好きになって、本当に信心の無い人やら、無信心の人達が気の毒な位に、それを反対に無信心者から見ると、とてもあんな事は出来んとこう言うけれどもです。それが出来ておられるという事は一つも難しそうじゃない、熊谷さんの場合。それこそあの年で嬉々としてお参りになる。喜びが一杯で参られる。先日ある方に話した事ですけれども、あぁ高橋さんでしたか。お届けなんかでも長く長くお届けをされて、私は一つも聞きよらん事がある。又耳に入らん事もある。
けれども芯から私が聞かんならんといってような事ではない事を、くだくだくだくだと長い長い、その要点だけ言うならアッという間に終えるとに、長いお届けをする方がある。所が熊谷さんのお届けだけは、どげん長かったっちゃ私は楽しいと言うて話した事がある。昨日一昨日でしたか。と言うのはです例えば一日の自分の信心生活から生まれてくる、神様の働きを感じられるお届けをされるんです。
ですからもう熊谷さんが、こゝへ座られるとね、今日はどういうおかげを受けられただろうかと思うて楽しいです。お取り次をさせて頂き乍ら。信心が好きになると言う事。信心が好きになると言う事が、信心は見やすいものじゃという事になり。でなかったらです。三年五年では迷い易いとか、十年と信心が続いたら、吾ながらわが心を喜んで祭れとかと言う様な事に繋がり難い感じがします。
只信心なみやすかばのと。子供でん出来る事ですよと言ううごたる信心で、わが心が祭れる筈もない。それはおかげ頂くけん有難かばのというとが、今度はおかげ頂かなかったら、もう三年どころか一年も続かんです。参ったばってんおかげ頂ききらじゃったち言う。そんな人はどの位おるか分からない。けれども信心が好きになると、おかげとかおかげを頂かないとか問題じゃないのです。自分の心が神様へ近付いて行くと言う事が、只々楽しい只々有難い。
それでそこから日々をです。熊谷さんじゃないけれども。もう一日がおかげ話である。これなら成程吾ながら喜んで、わが心を祭れという事にもなる。その日その日が立ち行けばこゝ辺の所も、熊谷さんの場合なんか見事ですね。その日その日が立ち行くという事について。子供さん達が幾らもおられますけれども。長男の則郎さんは大阪におられます。娘さん達もいくらもおられるけれども、皆んな縁についておられる。一番下の陽子さんが今度縁につかれますです。
ですからもう一人になりなされなければならない。それでそこにですもう本当に、神様と共に有るという不安が無い。沢山預金がある訳でもなければ、財産がある訳でもない。それは大体昔の財産家ですよね、あゝいう大きなお家に、あれだけの物持ちではあります。けれども金銭と言うて特別に収入がある訳ではないけれどもです。神様にはやっぱりつう一杯の事をなさっておられる。いつもいうならば、財布をはたいてからの御用である。それが日々先生、出来ると言う事が有難いと言うておられます。
私は今朝方からこれは、どう言う事であろうかと思って、今日の御理解とどんなに繋がるだろうかと思わせて頂いたら、グ-チョキパ-てす、じゃんけんぽいです。それをあのチョキですよね。人差し指と高々指をチョキと、こうするでしょう。ハサミですこれは。その人差し指が、こんなに短いところを頂いた。チョキをしとるとのこれがこんなに短い。そして今日の御理解を頂いて、信心は見易いと言う事はね、好きになる事だと。そんなら、好きになると言う事は、どう言う事を好きになる。
いわば手立てというものが有るだろうか。信心が好きになる。それはもう思うごとおかげ頂くけん、信心が好きになるち言うならまだえゝけれども。思うごとならんでんそんなら熊谷さんの場合なんかは、時々足が動かれんごと痛まれる時がある訳です。そしたらこうやって足を引きずるようにしてから、参って見えます。皆さんどのように思われる。チョキというのは、高々指と人差し指を二本出したのがチョキなんです。
その人差し指がこんなに短い。私はその事がどう言う事か分からなかったけれど、こゝへ座らせて頂いて。今日は六十九節を頂きましたから六十九節と、どげな風につ繋がるじゃろうかと思うて、御神前で頂いたそのチョキの事を考えさせてもらいよったら。石と風呂敷を次にこゝでそれは頂いた。そこで初めてははぁ信心が好きになる、これは手立てだなと思うた。グ-チョキパ-という在り方になったら、信心が好きになるです。例えて言うと、グ-チョキパ-、グ-ちゃ石ですよね握る。
例えばねもう握って離さんち言うごたる人は、絶対信心な好きにならんです。欲の深い人ですたい。目先の汚なか人です。それはもう、入ったものは握ってこうやってしとる。いわゆる握り詰めとるち言うでしょう。もう握り詰める欲の深い人は、信心は絶対有難くなれないです。それはおかげは受けますよ。けれども信心が好きにはなれないです。いわゆる限りなく美しくなりましょうやと、昔は合言葉のように言うておった。本気で美しゅうならせて頂く事にならにゃいかん。
と言うて今度は風呂敷のごと、パッとはずしてしもうたと言うのは、これは私はそうでなくてから、風呂敷ばっかり広げちから、おかげだけは貰いたいち言う行き方です。おかげ頂くと言う事だけにいうならば、風呂敷を広げてから、どうぞこれ下さいと言うて、その言うような行き方ではですおかげは頂いても、信心は好きにはなれません。おかげは頂きたい。それこそ海老で鯛を釣るような事ばっかりを心の中に思うておる。ちょこっとばかりお供えしといてから、ガバッとおかげ頂きたいと思いよる。
おかげを頂く頂かんは別として、ガバッとおかげの頂けれる事が楽しゅうなると言う事。もう絶対信心が好きになりますよ。所謂チョキです。チョキと言う事は、これはどう言う事かと言うと、あれはハサミです。ハサミはチョキチョキと言いますから、貯金と言う事です。いわば信心の貯えと言うか、常日頃に信心の稽古をしておけよと。まさかの時には金光大神助けてくれと言えば、助けてやるとか。日頃信心の稽古をして、地を肥やしておけよと。一人でにものが出来るようなものぞと言う様にです。
そういう信心の貯えが出来ておる所の実感です。段々力を受けていく、徳を受けて行くことが分からせて貰う。チョキというのはそういう事なんだ。信心の貯金が出来て行く。さっさと、人間の銀行に預けるのじゃない、神様の銀行天の銀行に預けておくと言う事。このチョキと言う事には人差し指が短い。これはどう言う事かと言うと、これは又大変意味があるようである。中心の高々指と人差し指、中心これは信心と言う事、又は中心心と言う事、信心を伸び伸びとと言う事。
本当に心が神に向うと言う事。信心の貯金が出来ると言う事は、その貯金の出来るような信心とはそういう信心。同時に本当の貯金と言うのはです。これは人差し指が半分しかなか。これじゃ切れもせん貯金でもない。人と言う事は人格と言う事。信心させて貰うなら、成程あの人は信心しなさるけん違うと言う、まず人格を作らにゃいけないと言う事。隣近所からでも、あの人達はそうにゃ金光様に参りよってばってん。
言うちゃることしちゃる事はもう、あげなつが金光様の信者じゃろうかち言うごたることでは、いつ迄たっても信心な好きになれませんです。信心が好きになる。まず改まりにも改まらせて頂いてです。人間を研かにゃいかん。人間を作らにゃいかん。人格を作らにゃいかん。それに何ぞやこの人差し指は、こんなに短いち言うごたる。この信心は素晴らしい信心頂いておっても、人間自身が変わらなかったら、短かったら貯金にはならんじゃないですか。そういう、人格を作る事に精進させて貰う。
そして金光様の御信心させて頂く。本当の信心をさせて貰う。そこで初めて貯金が出来る。これはどげん人格を作ったっちゃです。〇〇教やら〇〇宗のごたるとば信心したっちゃ、絶対貯金にゃならんとですよ。もう最近私はそれを本当に痛感します。惜しいなぁあれしこ打ち込んでするなら、それこそ徳を受けるだろうけれども。人格は立派に例えば、本当に立派であってもです。打ち込んでおる信心そのものが、本当な信心じゃなかったらですね、それはもう徳にはならんです。
その点金光様の御信心を頂いておると言う事は、もうそれこそ夕べも一昨日の晩、昨日の晩も文男先生が十一時頃からやって来て、信心話を一生懸命し出したら、もう二時もう二時にもなるけん、ちょいと休まんのと言うて二時迄でした。昨日は秋永先生がやって来て、まあだ二十三時ショ-がありよる頃だった。それからテレビは切ってから、さぁ信心の話をしだした。はぁもう十二時になって一時になった。もう先生、早う休んで下さい。けれども立たれまい。
立たれんから又私がお話をする。結局夕べも二時迄。もう信心話ばかり。本当に好きな事で遅くなるのですから、翌くる日目覚ましでもなんでも、すがすがしい目覚ましが出来る。あれが何か相談事とか、嫌な事で二時迄も起きとらにゃんち言や、それは大変な術ない事ですようね。もう十二時になったけん休みなさい。もう一時になったけん休みなさい。「はい」「はい」ち言いながら立ち上がらん。そうすと又私がお話をする。もう好きな事ですから、夜通し話しとったっちゃ有難いと思う。
好きになると言う事は、そう言う事だと思うんです。金光様と言ういうなら、素晴らしい信心を頂いておるのてすから。この人差し指人格がです、素晴らしい人格が出来上がって行くと言う。それでいて初めて貯金になるのです。どんなに人格を研いて行っても、素晴らしゅうなっても、人物は本当に素晴らしいと言うてもです。打ち込んでおるその信心が、ほんなもんじゃなかったら、絶対お徳は受けられない。
私はそういう信心を沢山知ってる。と言うてそんなら金光様の信心を頂いてもです。今言うグ-チョキパ-でね。こうやって握ったら、離さんち言うごたる信心。おかげだけは風呂敷広げて、こうやって風呂敷広げて貰いたいと言う信心。こういう有難い信心を頂き乍ら人物は、一つも変わらないと言うのなら、いかに金光様の信心が素晴らしかっても、それでは徳にも力にもならない。いわゆる信心は好きになれない。
私は信心が見易いものという事は、信心が好きになると言う事だという風に聞いて頂いた。そんなら好きになる為にはです。私がグ-、チョキ、パ-で申しましたようなです。限りなく美しゅうならせて頂く限りなく人間が変わって行く。おかげという事は問題ではない。信心を頂くという事が有難いと分からせて貰う信心。そういう信心になるならば、必ず、誰でも信心が好きになれる。
いわゆる見やすう出来る、迷いも起らない。本当に吾とわが心が祭れと仰る、そういう境地も開けてくる。神様の働きを日々心の上に実感させて頂き乍ら、生活が出来る。本当の信心生活が出来る。こゝにはねもう限りないおかげ、限りないお恵みその限りないおかげに繋がっていく事の為には、又そういうおかげの頂ける事の為には、どうでも信心が、まずは、好きにならなければならないと言う事を聞いて頂いたですね。
どうぞ。